お手引き〜神様への御礼〜

みなさまこんにちは細川佳世です。
今から10年くらい前のことでした。自宅の最寄の尼崎駅から、電車に揺られて30分のところにある神戸駅におり立ち、ぶらぶらとお買い物を楽しんでおりました♬
      
ずっと心の病を抱え、日常生活を営むことが出来なかった私が、信心の師匠のお取次を頂く中で、こうしてお買い物を楽しむことまで出来るようになってきた頃の出来事でした。
  
  
日が暮れ、そろそろ帰ろうと思った時、駅の構内の隅っこに、私と同じ年齢くらいの女性がうずくまっていました。体調でも悪いのかな・・・私はその女性に近づいて「大丈夫ですか?」と声をかけました。
   
顔を上げたその女性の顔は、涙でいっぱいでした。
   
私はびっくりして、「何か辛いことでもあったのですか?よかったら聴かせてください」と声をかけました。
      
その方は何も言わずに、何かを訴えるような目で私のほうをじっと見ながら、ずっと泣いていました。そして、少し落ち着いた頃「大丈夫です」とおっしゃいました。
   
   
私は、この女性を助けたかったけれども、どうしたらいいのかわからず、後ろ髪をひかれる思いで尼崎駅行きの電車に乗りました。そしてその足でお教会に参拝し、今日あった出来事を、信心の師匠である先生にお届けさせていただきました。
    
   
「先生、実は今日、駅の構内でずっと泣いている女性がいました。何か、深い苦しみを抱えているかのような目をしていて、まるで、過去の私を見ているようでした。助けたかったけれど・・・私にはどうすることもできませんので、どうか神様、お守りくださいませ」
         
そうお届けさせていただきました。すると先生が、このように仰いました。
    
   
「そうかあ(^^)そんなことがあったんやなあ。佳世さん、メールアドレスとか渡したの?」
   
     
「いえ、先生、何も・・・話を聴いて、手を差し伸べ、肩をかす事くらいは出来ましたが、私は先生みたいな取次師ではありませんので、その方の心の苦しみを、神様に取り次いで、助けてあげられるわけではありませんので・・・」
 
          
すると先生が、このように仰ったのです。
「そうかあ。そんな時は”いつでも連絡してきてね!”ってメールアドレスでも渡してあげたらいいんやで(^^)」
    
       
そして私は、ハッと気がつきました。
「あの時、メールアドレスさえ渡していれば、そしたら数日後でも、その女性からメールが来たかもしれない。そうしたら私がお教会に連れていってあげられたかもしれない!!」
      
その後、神戸駅に行く度に、女性がうずくまっていた場所まで足を運びました。しかし、二度とその女性に会えることはありませんでした。
   
もう後悔しても遅いのですが、私はその時の出来事を、その先もずっと悔やみ続けていました。
  
     
  
  
もう二度と後悔したくない。その後、私は自然と「お手引き」ができるようになりました。
     
「お手引き」とは、その名のとおり、難儀で苦しんでいる方の手を引き、お教会に連れ立って、お参りをさせていただくことです。
お参りさせていただくまでに、自分が救い助けていただいた喜びをお伝えしたり、参拝してお取次が頂きやすいように準備を整えたり、参拝の礼儀作法や、神様へのお供えの仕方をお教えすることもございます。そして参拝後は、感想を聴かせてもらったり、その方の助かりを祈り支え続けさせていただいたりします。
  
  
当時の私は、このお手引が生きがいでした。
自分では到底、人を助けることなどできません。でも、人を助けたい!   
   
ここでいう”人を助ける”というのは、誰かに優しく接するとか、肩をかすとか、そういう意味ではなくて、過去の私のように、今日の命もわからない、今まさに”生きるか死ぬか”という難儀にもがき苦しむ方の命を、全身全霊で受けとめることを指します。
      
私も、「死にたい、苦しい、寂しい」と泣いている人を救い助けたい!そう願う私に残された唯一の、人を助ける方法。それがお教会への「お手引き」だったのです。
  
    
    
    
大学生だった頃のお話です。友達が人間関係で悩み苦しみ、私がいつも相談にのっておりました。しかし一難去ってまた一難。その子の心は壊れてしまう寸前でした。私は「神様!神様!」と祈りながらこう言いました。
        
     
「ねえ、私と一緒に、お教会にお参りしてみない?私、毎日お参りして、先生に話を聴いてもらってるんよ!どんな事でも話していいし、どんな事でも親身に聴いてもらえるし、どうしたら楽になれるか教えてもらえるし、一緒にお参りしてみない?一対一で、じっくりと話を聴いてもらうだけでも、すごく楽になるよ!(#^^#)」
    
    
そこには、ありのままの私がいました。
「どう思われるだろう?」
「嫌がられるだろうか?」
そんな事を考えることも無くなっていました。なぜなら、自信があったのです。私が助けるわけじゃなく、「神様と先生が助けてくれる!」という自信があったのです。
       
  
その後、無事に参拝が叶い、先生からお取次をいただき、友達は嬉しそうに感想を聴かせてくれました。
   
「佳世、ありがとう。話を聴いてもらって、すごく楽になったよ。お取次してくれた先生、すごく話しやすかったから、誰にも話したことないことまで話すことができたよ(T_T)佳世、本当に本当にありがとう。またお参りさせていただきたいなぁ」
    
私は嬉しくてたまらなくなり、一緒に手をとって喜ばせていただきました。
   
ふつふつと私は、自分の使命を感じるようになっていきました。その使命とは、神様に命を助けていただいた者として、苦しんでいる人を一人でも多くお教会に「お手引き」させていただくことでした。そうさせていただかないと、命を助けていただいた身として、ソワソワと落ち着かなかったのです。
     
お手引させていただくことを生きる喜びにしたい。私が助けるわけじゃなく、私を取り次ぎ助けてくださった「神様と先生が助けてくれる」のですから、私でもできます。あとは「神様!神様!この方をどうか、お広前に連れて行ってあげてください」と祈りながら、声をかけさせていただくのみです
  
  
  
   
10年前、神戸駅の構内での出来事が、今でも時折に思い起こされてまいります。そして、「ああしておけばよかった」「こうしておけばよかった」という悔しかった思いを、この先もずっと忘れることはございません。
その時の経験は、私がお道の教師になり、難儀な氏子を取り次ぎ助ける立場に立たせていただいた今、非常に大きな財産となっていることを感じております。
   
    
ここ、平戸教会にお参りされた氏子がこのようにお届けされました。
         
「佳世先生、友達が苦しんでいるんです。神様にご祈念をお願いします」
        
私はこのように取り次がせていただきました。
    
「◯◯さん、お友達が苦しんでおられるのですね。そうでしたかあ。それならば、今度は◯◯さんが、そのお友達を、このお広前に連れてきてあげたらいいですよ(#^^#)それが一番の神様への御礼になりますよ」
 
するとその氏子はパッと笑顔になられ、
       
「なるほどお!そうですね!そうします(^^)友達に、参拝のしおりも渡してみようかなあ〜」
      
その氏子の笑顔は、神様からいただいた自分の使命を感じているかのようで、きらきらと輝いておられました。 
       
       
今日もまた、今もどこかで悩み苦しんでいる方のお引き寄せを祈りながら、御結界に座らせていただきました。もっともっと、人が助かる御用をさせていただけますようにと願っております。
神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世

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