お礼の気持ちを「形」にできないと、寂しくなって苦しくなる

みなさまこんにちは。佳世先生です。

この度は夫婦そろって5日間、恩師のお教会(金光教尼崎教会)のご大祭の御用奉仕にお使いいただきました。

夫婦そろってたましいの親元へ「ただいま」と帰り、そしてまた最西端の平戸の地へ布教に「行ってきます」という温かい世界。
長い間、親の温もりに飢え、孤独を感じて生きていた私たちは、こんな温かい世界があるなんて、知りませんでした。親とか家族とかは、血のつながりは関係ないことを改めて思います。

 

 

春のご大祭からこの半年間、平戸教会においてはたくさんのおかげを蒙らせていただきました。
日々私たちにとっての信心の師匠、たましいの親である、尼崎教会の津田昇平先生のお取次を仰がせていただきながら、めぐりのお取りさばきの大みかげを何度も蒙らせていただきました。
    
そして家庭内においては・・・
指摘したり、責めたり、足をひっぱったりする世界から、
支え合い、守り合い、許し合う世界へ変わりつつあります✨
     
教会内においては・・・
お取次が無かった世界から、
助けてと泣き叫ぶ氏子と、一緒に笑い合い、一緒に涙し、よく頑張ったと褒め、ありのままを受け入れる世界へ変わりつつあります。
   
    
この半年間平戸教会において、どれほどの変化のおかげを頂いただろうか・・・
尼崎教会あっての平戸教会ということを思います。
信心の師匠のお取次あっての自分たちの命、また、家族の命であることを思います。
そのお礼の気持ちは、けして忘れてはならないと思っています。
   
お礼を申すと言っても、
お礼の気持ちを形にできないと、やはり寂しくなって苦しくなります。
お礼の気持ちを形にしようと取り組むほど、たましいが喜び幸せを感じます。
   
ですので、何があってもせめて尼崎教会のご大祭には、長年の御礼として夫婦で御用奉仕に出発させていただきたいと願っています。しかしそうはいかない事もこの先あると思います。しかしそれでも「願い」として持たせていただきたいと思っています。
お礼の気持ちが心からのものなら、自然と形になっていくものなのだと、それが天地の道理であることを改めて知りました。

 

 

この度、今の平戸教会にとっては、夫婦そろって御用奉仕に来れましたことが何よりの大みかげでございました。
尼崎教会に無事に到着させていただいた時の「無事に着いたねえ〜」と何度も言い合った時の感動と安堵は今も忘れられません。
    
そしてその間「平戸教会のお結界を空ける」ということ。
不安を感じる事は無く、むしろ逆で、ただただ神様と金光大神様が平戸教会のお結界に居てくださると信じていました。
    
そして、やはり平戸教会の氏子をお守りいただきました。
さっそくご大祭のごひれいをいただき、平戸教会の氏子におかれましては大みかげを蒙らせていただいております。
お仕事がうまくいったり、目が見えるようになったり✨

私たちが「お礼の信心」をさせていただいたら、平戸の氏子がおかげを頂かれるということ。
これも天地の道理なのだと改めて知りました。
   
   
思えば、教会御用、教会御用と、言ってがむしゃらになっていた頃の私は、心がこもった御用はひとつもできていませんでした。
しかし「御用より信心をさせていただきたい」と思うようになってからの私は、心がこもった御用をさせていただけるようになりました。
    
神様、金光大神様、至らぬ私たちですが、心のこもった御用をさせていただけますように。そして人ひとり、助ける御用ができますように。そう願わせていただいております。
    
   
金光教平戸教会 細川展信・細川佳世

 

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