一つ一つの小さなおかげを頂いていく

みなさまこんにちは🌼細川佳世です。    

深い難儀から助かりたいと思ったら、一つ一つの小さなおかげを喜んでいくことが大切になってきます。しかし、苦しみの真っ只中にいる時は、それがなかなかできるものではございません。ですから、お取次してくださる先生、つまり「私にとっての金光大神様」に付いてていただき、一緒に乗り越えていくのです。
一つ一つの小さなおかげを一緒に喜んでいただき、苦しいところを一緒に乗り越えていただき、そして最後の最後に、結果として、深い難儀から助かるおかげをいただけるのでございます。  
  
  

  
    
神様が、苦しんでいる私のことを可哀想に思い、恩師のお広前に連れてきてくださったのは19歳の時でした。その頃の私は、朝もなく夜もなく、食べては吐くという過食嘔吐を繰り返していました。「先生、一刻も早く過食嘔吐を止めてください!」私の願いはそればかりで、それしか願えませんでした。
  
   
ある日の真夜中のことでした。待った無しに襲ってくる過食嘔吐の波から逃げようと、私は家を飛び出しました。街灯ひとつない真っ暗な道を、激しい恐怖心でガクガクと震える足で、一生懸命自転車のベダルをこぎました。息切れしながらファミレスにたどり着いた私は、震える手で携帯電話を取り出し先生にメールを打ちました。
    
      
     
『先生、お取次お願いします。私は今、ファミレスに来れました。過食嘔吐の波を振り切って逃げてきたんです。どうか、少しでもここで休憩をさせてください。でも、ファミレスでも過食嘔吐の波が襲ってきていて、とてもこわいです。先生、一刻も早く過食嘔吐を止めてほしいです。私は今日も一日、過食嘔吐以外のことは何一つできませんでした。過食嘔吐以外、何もできない自分は、生きている意味がないと思っています』
     
        
『佳世さん、お取次のメールが送れましたね。それだけでも一つできましたね。すごいことです。過食嘔吐の波を振り切ってファミレスに来れた。それもすごいことです。これまでできなかったことが、また一つできましたね。また一つ増えましたね。すごいことです』
   
   
『先生、でも私は、過食嘔吐を止めてほしいんです。私の願いはそれだけなのに、どうしてどうして、神様に届かないのでしょうか』
  
  
『佳世さん、目に見えて過食嘔吐が止まるとかじゃないけれど、止まるために必要な準備というか、おかげをたくさんくださっている。過食嘔吐が止まるのが大きなおかげとすると、そのための一つ一つの小さなおかげをいただいていくことが大切で、またそれしかないのです。そして佳世さんは、毎日、毎日、その小さなおかげをいただいている。それが先生はすごく嬉しいんです。本当に嬉しいんです。過食嘔吐しながらも生きてくれている。それが一番大変なことだし、一番すごいことだし、一番先生を喜ばせてくれること。佳世さんが今日も生きている。それだけで先生は嬉しいです」
  
   
私は、先生のメールを見て涙が溢れていました。その後やっぱり、ファミレスで過食嘔吐になりました。しかし、これまでと違うおかげをまた一つ頂きました。それは、これまで携帯電話の電源を切って隠れるようにして過食嘔吐していた私が、携帯電話を机の上に開いて、先生から頂いたお取次のメールを読み返しながら、読み返しながら、先生のお言葉をお守りのようにして過食していたのです。もう隠れなくても、神様と先生が守ってくださると信じることができたのです。
  
 

  
  
私はそれからも、先生のお取次を支えに、一つ一つ、できることが増えていきました。そして、大学も無事に卒業し、過食嘔吐を抱えながらも、七年間休まず会社勤めをさせていただくという、信じられないほどのおかげを頂いていたのです。
    
過食嘔吐以外何もできなかった私が、休みの日には上司や部下と一緒にお鍋を囲んだり、登山に出かけたり、夜が明けるまで語り尽くすこともありました。社会生活は楽しいことばかりではありませんでしたが、毎日とても充実しておりました。
    
この頃から私の中で、どうしても無視できない気持ちが生まれてきたのです。
  
「過食嘔吐があっても、もっと自分らしく生きたい…」
     
私は、これまでずっと願ってきた「過食嘔吐を止めてほしい」という思いを手放し、過食嘔吐を抱えながらも、自分のしたいことをしていこうと思い始めたのです。その時から、信じられないことに過食嘔吐の症状は次第次第に落ち着いていき、気づいた時には過食嘔吐が止まるおかげをいただいたのでございます。
   
   

  
      
深い難儀から助かりたいと思ったら、一つ一つの小さなおかげを喜んでいくことが大切になってきます。しかし、苦しみの真っ只中にいる時は、それがなかなかできるものではございません。ですから、お取次してくださる先生、つまり「私にとっての金光大神様」に付いてていただき、一緒に乗り越えていくのです。
一つ一つの小さなおかげを一緒に喜んでいただき、苦しいところを一緒に乗り越えていただき、そして最後の最後に、結果として、深い難儀から助かるおかげをいただけるのでございます。  
     
  
今日も一日、氏子が頂いたおかげのその一つ一つを、一緒に喜ばせていただき、どんな難儀も一緒に乗り越えさせて頂ける私にならせていただきたいと切に願っております。神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世

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