何度でも、何度でも、試したらええんや

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。

「信じる」というのは、本当に本当に難しいことだと思います。とくに、過去に裏切られたり、傷つけられたり、心に深く傷を負っている人ほど、先に「疑い」の気持ちが出てきてしまうのです。
          

「疑い」の気持ちから、大切な人を信じれなくて苦しんでいる方は、実は大勢いらっしゃいます。
私も同じく、誰も信じることができませんでした。信じたくないわけじゃないのです。また裏切られ、傷つくのではないかと恐れ、信じたくても信じれなかったのです。
            
本日のお話は、誰も信じることができなかった私が、信心のお稽古を通して、再び「信じる」ということができるようになったお話をさせていただきます。
   
    

    
      
私は幼い頃から、孤独の中を生きてきました。
小学生の時、赤ら顔だった私は、友達からとても傷つくあだ名をつけられました。
出っ歯だった私は、友達から「口閉じたら?」とよくからかわれました。
それが辛くって歯並びを矯正すると今度は「整形!」とからかわれました。
もともと自分に自信の無かった私は、言い返す力も無く、それをそのまま受け入れてしまうのです。
  
             
しかし、その時の心の痛みは、その後の私の人生を大きく変えていきました。
         
本当の自分を隠して、自分を作るようになりました。
馬鹿にされないように、お化粧もファッションも勉強しました。
仲間はずれにされないように、いつも明るく振る舞いました。
誰かに好かれるように、夢を見つけて努力しました。
誰かに選んでもらえるように、いい子になろうと努力しました。
見捨てられないように、相手に尽くすようになりました。
       
         
努力に努力を重ね、ついに私にも「ずっと一緒にいたい」と言ってくれる人ができました。
こんな自分でも価値があるんだ…
そう思ったのです。
      
しかし、しばらくしてその人が他の女性と浮気をしている事に気づいたのです。
嫉妬と絶望でパニックになり、携帯電話を取り上げてその人を思いっきり責めました。
自分のどこが悪かったのか?何が悪かったのか?
過食嘔吐を繰り返しながら自分を責め、相手を責め続けました。     
   
そして、
その人は私から離れていきました。
     
     
惨めな気持ちでいっぱいだった私はこう思いました。
「信じすぎると、後で傷つくんだ。信じるってかっこわるいなあ」
そう思った私は、誰に対しても、ある程度距離を置いて付き合うようになりました。傷つかないように、いつも心に壁を作っていました。
            
しかし、そういう生き方も、長くは続きませんでした。
誰とも繋がっていない不安感から、心はどんどん不安定になっていき、絶望的な孤独へと追い込まれていったのです。
      
   

   
    
転機が訪れたのは、私が19歳の時でした。
誰も信じることができない私に、手を差し伸べてくれたのは教会の先生でした。
      
教会の先生が、私のたましの親となり「どんなあなたでも大丈夫なんや」と言い、無条件の愛情を注いでくださったのです。
           
もう一度、愛情を信じてみたい。

でも、信じて裏切られたら…
           
先生が注いでくださる愛情を信じたくても「それまでに裏切られるのではないか」「見捨てられるのではないか」とう根深い不安を乗り越えるのは容易ではありませんでした。
              
怖くなって先生を振り回し、時には傷つけるようなことを言ったり、愛情を試すことしかできませんでした。
        
          
「先生!やっぱり私は先生のことが信じられません!先生を試すことしかできないんです。試すことでしか、愛情を感じられないんです」
  
     
こんな私のことを、きっと先生は嫌になると思っていました。
しかし先生は、優しいお顔で、にっこりと笑ってこうおっしゃってくださったのです。
      
「佳世さん、何度でも、何度でも、先生を試したらええんや。神様も先生も、絶対にあなたを見離したりはせんし、先生が佳世さんのことを嫌になることなんて絶対にあらへん。何度でも、何度でも、試して、佳世さんが納得するまで試したら、全てがわかることや」
    
        
私は涙が溢れていました。
「試す」って悪いことだと思っていました。
嫌われる原因だと思っていました。
   
                 
それから私は先生に言われた通り、何度も、何度も、先生を試しました。
こんな自分でも、愛されるのかな?
こんな自分でも、離れていかないのかな?
      
              
それと同時に、私も覚悟を決めていました。
絶対に逃げない!と。
自分を見つめることがどれだけ苦しくても、自分の中の底抜けの孤独を見ても、絶対に逃げない!と。
               
「愛情を感じられる私にならせてください!」
「先生を信じられる私にならせてください!」
                  
泣きながらお広前でご祈念し、
泣きながら家のお社の前でご祈念し、
先生を試し、愛情を信じていくお稽古を繰り返し、
神様にしがみついて、必死で孤独の世界から這い上がっていきました。
               
すると、少しずつ少しずつ、愛情を感じられるようになっていったのです。その愛情を感じられる器は、年々大きくなり、いつしか愛情で満たされた私へ生まれ変わっていったのです。
       
      

       
        
自分を見つめ、自分の中の孤独と向き合うことは、とてつもなく苦しいものです。しかし、どんなに苦しくても、神様を杖にして神様と一緒になって、乗り越えれば、その後は、霧が晴れたように楽になっていくのです。
               
「神様が側にいてくれる」と言っても、神様は目には見えません。
だから、先生が一緒になって乗り越えてくださったのです。
神様が、私にとっての金光大神様を差し向けてくださったのです。
    
    

      
       
現在、私が御用をさせていただいている平戸教会のお広前には、誰も信じられずに苦しんでいる氏子らがお参りされておられます。
        
誰も信じられない苦しい気持ち、疑いの気持ちを私に話して聴かせてくださることが、本当に有り難く、嬉しく思っています。かわいいなあ、かわいそうになあ、何とかしてあげたいなあと、そればかりでございます。

私はいつもお伝えしております。           
          
「何度でも、何度でも、かよ先生を試してごらん。納得するまで試してごらん。神様も先生も、絶対にあなたを嫌になったり、見離したりしないよ(^^)」
   
十数年前のあの時の私に、「何度でも、何度でも、先生を試したらええんや」と言ってくださった先生の温もり。それは今も消えることは無く、私の中で生き続けてくださっているのです。
     
      
金光教平戸教会 細川佳世
   
(※お写真にある看板を見られたある御婦人が「私のことが書かれてた」とニコニコ笑顏で教えてくださいました)

      
               

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