信じたくないわけじゃない、信じることがこわいだけ

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。

   
お参りされた方が、このように話してくださることがよくございます。
   
「神様なんて信じてないです!」
   
その声を聞かせていただきながら、一方で、心の声が聴こえてきます。
   
「信じたくても、信じることがこわい・・・」
   
その心の声に耳を傾けながら、その方のここまでの人生を想います。
そして話を聴かせていただきます。
そうするとやはり、神様を信じれないことを”悪いこと”とは思えないし、無理のないことだと思うのです。
    
なぜなら”信じれない”ということは、それだけその方の心が、長い間深く傷ついてきたことを意味しているからです。
ただただ私は、その心の傷が癒える日まで、私という取次師の命を、頼りにしてくれたらと願っています。
だから、   
  
「神様なんて信じてないです!」
    
そう聴かせていただく度に、とても嬉しい気持ちになります。
信じれないからこそ、私と出会ってくれたのだと思うと、
この奇跡のような出会いに心が満たされ、とても嬉しい気持ちになるのです
   
    
“信じる”というのはとてもこわいことだと思います。
だからと言って、神様を信じれないままだと、何をしていても心が落ち着かないだろうなあって思います。
何か辛い出来事が起こった時も、きっと不安でいっぱいになっているのではないかと、心配で胸が痛みます。
だから、信じてほしいのです。温かい神様のことを。

 

 

「まずは先生と、ここでお話することからはじめてみませんか?」
    
そうして、毎日毎日、先生と一緒に取り組んでいくのです。これを信心といいます。
愛情の確認をするために精一杯、自分をさらけ出し、取次師の先生を試すのです。
苦しみも、悲しみも、喜びも、さらけ出して聴いていただくのです。
    
「今日も先生は、怒らなかった」
「今日も先生は、困った顔をしなかった」
「今日も先生は、大丈夫だった」
    
そして、この先生を信じていくお稽古の積み重ねは、いつしか「神様を信じる力」に繋がっていきます。
それは、私がそうだったからです。
「この先生が信じる神様なら信じてみたい」
私にとって、目の前の先生を信じていくことは、神様の温かさを信じていくことと同じだったのです。

 

 

信心において大切なことは、  
「取次師の先生を信じれた分だけ、神様を信じられるということ」   
そして
「神様を信じられた分だけ、神様のお力を引き出すことができ、神様からのお徳をたくさんいただけるということ」
このように、誰もが“人を”飛び越えて神様を知る事は難しいことなのであります。
   
   
もう、どんな方も、ひとりぼっちで悩まないでください。まずは、

ここでお話することからはじめてみませんか?

人には話せないこと、苦しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、どんなことでも聴かせてください。
共に助かり、一緒に幸せになりたいと、平戸教会のお広前で日々願わせていただいております。
   
神様、金光大神様、今日も一日ありがとうございました。
     
金光教平戸教会 細川佳世

 

       

         

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