助かってもなお、助かり続けること

みなさまこんにちは🌼細川佳世です。


最近、少しずつ御結界に座らせて頂く時間を増やさせていただいております。できれば1時間でも長く御結界に座らせていただきたいと思っております。

神様が、苦しんでいる氏子をここへ連れてきてくださるように。
神様が、安心して氏子を私に託してくださるように。
御結界で、氏子の参拝を信じ、待たせていただいております。

お参りされている方のほとんどが、どこに行っても助けてもらえなくて、受け入れてもらえなくて、聴いてもらえなくて、絶望し、最後の最後にたどり着いた場所が、このお広前だったという方ばかりです。
そんな方が、神様のお広前では助けていただける、どこまでも受け入れていただける、何時間でも聴いていただける、そういった場所があることが、改めてありがたいなあと神様に御礼を申し上げさせていただいております。
 
 

 
  
私自身、心も体も一番しんどかった頃、この御結界という場所で、お取次をいただき、命を助けていただきました。私は思春期の時に摂食障害という心の病を患い、精神科に何年通ってもちっとも良くならず、最後の最後にたどり着いた場所が、信心の師匠のお広前でした。私は毎日毎日、御結界で「過食嘔吐がしんどいです」と訴え、救いを請いました。
  
ある日、私は下を向いて、やっぱりその日も同じく「過食嘔吐がしんどいです」と呟いていました。目から涙がボロボロと流れていました。
   
先生は、静かに目を閉じ、深くうなずいてくださいました。
先生が私のことを、祈ってくださっていることがわかりました。
    
それからまた、静かに先生がこうおっしゃいました。
   
「佳世さん、一緒にご祈念させていただこうか」
    
先生がまた静かに目を閉じ、私のことを祈ってくださいました。
私も御結界で平伏し、目を閉じて祈りました。
     
先生と一緒に神様に祈る。そのひとときがとってもありがたかったのです。
それで、私の過食嘔吐が、治るわけではない。
でも、私の分け御霊様(たましい)の苦しみは、和らいでいたのです。
      
お取次が終わり、最後にまたお広前でご祈念をして、私は1人ぐらしのマンションへ向かいました。明日の朝、また先生に会える保証はありませんでした。過食嘔吐に振り回されて、喉に食べ物を詰めて、今晩死んでしまうかもしれない。でも、たとえ死んでしまっても、先生は私のことを祈り続けてくださることを信じていました。だから私は、たとえ今から死んでしまっても「私は精一杯生きたのだかから、こんな人生もありなんだ」という気持ちなっていました。
  
 

 
 
それから、どんなに苦しくても自ら命を絶つことも無く、一日一日、先生のお取次をいただいて、命を繋いでいただいて、次第次第に楽にしていただいて、気づいたら十数年の時が流れていました。
   
今、過食嘔吐からは救われ、心の苦しみから解放され、難儀の根を断ち切っていただき、私は神様のお結界に座らせていただいています。そして、助かった今もなお、信心の師匠にお取次を願い、助け続けてくださっています。助かることに終わりはないんだなあって思います。生きている限りは、助かり続けるしかない、助かりを求め続けるしかないんだなあって思います。それだけ、人を助けることは大変なことでありながら、苦しでいる氏子は星の数ほどおられるのです。
  
   
今日もまた、ここ平戸教会の御結界に座らせていただいておりましたら、長らく参拝が途絶えていた氏子から「死にたくなってきました。明日参拝させてください」との連絡がございました。
参拝は半年ぶりでしょうか。どうしているかなあ、ひとりで泣いていないかなあ、と案じては、その氏子のことを祈らなかった日は1日たりともございませんでした。最後に見た氏子の姿は、「先生、楽になりました。ありがとうございました」と言って帰っていかれる満面の笑みでした。しかし、お参りして、お取次を頂いて、その時楽にしていただいて、それで「助かった」なんてことはあり得ないのです。参拝は続かないと意味がないのです。私自身の経験から、生きている限りは救われ続けるしかないのです。助かってもなお、助かり続けるしかないのです。
           
氏子にたくさんのおかげを頂いていただくため、まずは私がたくさんのおかげを頂いてまいります(^^)そしてここからも、神様の慈愛に満ちた深い御心に、少しでも近づかせて頂きたいと願っております。  
神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世

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