1分でも遠い場所、15時間でも近い場所とは?

2019年、明けましておめでとうございます。佳世先生です。


平戸教会では、無事に元日祭を麗しくお仕えさせていただき、神様に新年のご挨拶をさせていただきました。
また、参拝したくっても、心や身体の都合で参拝ができなかった氏子のことも、今年一年しっかりと参拝が続いていきますよう祈らせていただきました。      
そして私自身のこと。今年も一年、氏子を助け、氏子を守るためだけに私の命をお使いください!と神様にお願い申し上げました。
   
   
そして今月もまた、命を助けていただいた信心の師匠の元へ、新年の御礼参拝をさせていただきました。なんと片道15時間かかります
それでも「参りたい!」「参らせていただきたい!」「参らずにはおれない!」とたましいの奥底から湧いて出てくるこの熱い想いは、一体どこから出てくるのだろうか・・・
   
      
私は教会で生まれ育ち、幼い頃から神様のありがたいことを教えていただいていたので、自然と神様の前では手を合わせ、頭をさげる習慣がございました。
しかし心の奥底ではどこか、「参るべき」「参らないといけない」「ねばならない」という気持ちでお広前にお参りしていたのが正直なところです


申し上げにくいのですが、時には「お参りすると友達と会えるから」「友達と遊びたいから」という理由でお広前にお参りをし、目的が友達で、神様が”ついで”になる時もございました。今思うと、ついでのお参りだったなんて、神様に対してお恥ずかしい気持ちでいっぱいになります。
   
   


そんな私が今、信心の師匠がお守りくださるお広前に「参らずにはおれない!」という想いが湧いてくる理由は2つあるように思います。
   
1つ目は「命を助けていただいた」という、命の奥底で感じている温かい気持ちです。
    
それと2つ目は「助けてほしい」という気持ちです。  
私が求めているのは「助かり」なのです。一人の氏子としての「助かり」と、教師としての「助かり」です。
    
一人の氏子としては、これまで15年かけて取り次ぎ助けていただきましたので、ここからは教師として助かりたいのです。これまで恩師にしていただいてきたように、一人の氏子のために命をかけ、全身全霊でお取次をさせていただき、消えゆく命を救いたいのです。自分がしていただいてきたように。
    
   
その覚悟を、恩師の元へ参拝させていただくだけで、身にいっぱい頂けるのです。そんな自分の姿を見る度に、参拝する人の心は正直だなあ、と思わされます。   
ただ「助かるか、助からないか」。    
私の中にも分け御霊様がおられるから、正直なんだなあと思います。   
    

「命を助けていただいた」
「助けてほしい」

だから、「参りたい!」「参らせていただきたい!」「参らずにはおれない!」この熱い思いがないと、時間やお金を使ってまで、足を運んで参りたいとは思わないものです。
世の中には、徒歩1分でも遠く感じる場所もあれば、15時間かけてでも近く感じる場所もあるもので、それは結局、自分の「心」だったのです。


私は参拝の道中は、自然とここまでいただいたおかげを振り返っております。「この事を御礼申したい!」「あの事も御礼申したい!」そうやって振り返っていると15時間はあっという間でございます。 
ありがたくお参りさせていただくためには、大半が道中なので、その道中が有意義でなければ、ありがたい参拝にはならないものですよね

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新年をお迎えし、夫婦で願いを新たにさせていただきました。
「お広前を守り抜く」ということ。
どうか「助かる場所」がこの平戸の地に息づいてほしいという想いを胸に、今年も何があってもお広前を守らせていただきたいと願っております。          
そんな願いを立てた直後、お教会に電話が鳴り響きました。

「死にたいです!助けてください!」

神様、どうかこの方をこのお広前に連れてきてあげてください。この氏子を取り次ぎ助けたい。神様どうか、私達を御用におつかいください。
神様、金光大神様、引き続きお導きくださいますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

金光教平戸教会 細川佳世

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