みなさまこんにちは。佳世先生です。
 私は、初参拝の感動をこのように残しております。
       
 「こんなにも優しく手を差し伸べてくれる人が、まさかこの世にいるとは思いもしませんでした」
 「私は、夢でもみているような」
 「やっと自分の居場所を見つけたように感じておりました」
 「この日の初参拝の出来事を、私は一生忘れることはございません」
            
 それは、重い摂食障害を抱えていた19歳の時でした。
 「多くの人が助かっている」という噂の先生に会いたいと思い、先生のお広前にお引き寄せいただいたのです。
            
 ところが私は、初参拝の後、続いて参拝をさせていただいたわけではございませんでした。二回目の参拝まで、一年間もかかったのであります。
  
     
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 私は初参拝の後、こう思っていたのです。
       
 「信心して摂食障害を早く治して、そして治ったら先生のお広前にもう一度お礼参拝をさせていただこう!」
              
 そして、「先生、あの時お参りさせていただいた者です!あの時、先生がお取次くださったおかげで、今元気に過ごさせていただいております!」
             
 と、いい格好をしようと心の片隅で思っていたのです。そして、
         
 「佳世さんすごいなあ〜信心ができてるなあ」と褒められたかったのです。
           
 自分の力でなんとかしてやろう。
 何とかできるに違いない。
 信心だって知ってるし自分でできる。
 という気持ちがあったのです。
             
             
 その頃の私は、神様に頼ったり、助けてもらうということを、よく分かっておりませんでした。「家の神棚の神様に拝んでいたら、おかげがいただける」と思い込んでいたのです。 
         
 まさに身勝手な信心です。「拝み信心ではおかげはいただけない」「身勝手な信心ではおかげはいただけない」と教祖様はおっしゃっておられるのですから。
   
   
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 二回目の参拝までの一年間。
 私は何をしていたかといいますと、自分の力を信じ、自分なりに信心して助かろうと、死に物狂いであがいていたのです。
 もちろん、部屋の神棚の神様にはいつも手を合わせていました。
      
       
 ところが、初参拝の時に、少し開いてしまった”心の蓋”
 これまで蓋をして、なんとか誤魔化してきたことが、誤魔化せなくなってきたのです。
        
 人に会うのがこれまで以上に怖くなって、大学に行けなくなりました。
 自分の顔はおかしくないか、服装はダサくないか、馬鹿にされないか、
 そうやって人の顔色ばかり気にするようになりました。
 その恐怖を必死で隠すために、ブランドバックを買い、流行りのお化粧をし、髪を染めて縦に巻き、8センチのヒールを履いて、見栄を張り、そうやって完璧に武装してやっと人と会えました。
    
           
 また、過食嘔吐に膨大な費用がかかるので、いくつものアルバイトを掛け持ちしていました。
 憧れだったイタリアンレストランのアルバイト。
 一度はしてみたかった居酒屋のアルバイト。
 夢だった介護施設のアルバイト。
 いつも、人前では機嫌よくニコニコしており、介護施の施設長からは次期施設長になって欲しいと言われるほどの働きぶりでした。
 でも内心は人が怖くて、恐ろしくて、裏で過食嘔吐をしながらバランスを保ち、ギリギリの心でアルバイトを続けていました。
    
       
 私はずっと自分を、誰より大きく見せたい、良く見せたいと思っていたのです。
 自分は誰よりできると信じたかったのです。
 それで見栄を張ったのです。
 でも心の中は、いつも優越感と劣等感の繰り返しでした。
 つまり、「ありのままの自分」に全く自信がなかったのですが、その時はよくわかっていませんでした。
   
   
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 ある日のこと。
     
 唯一、心の支えであった当時付き合っていた人と、急に音信不通になりました。私は取り乱し、手当たり次第に知り合いに連絡をとりました。
 しばらくして、私は振られたことを知りました。
   
 自分が世界で一番不幸だと思いました。
 愛されていたと思い込んでいた自分が、世界で一番、馬鹿で、惨めで、愚か者だと思いました。
   
         
 ふと、心の中に先生のお広前が浮かんできました。
 「死にたい」と思いながらも、それでも「救われたい」という気持ちがありました。
 私は、ここにきてやっと「先生に聴いていただこう」「助けていただこう」「おすがりしよう」という気になったのです。
   
      
 それから私は、久しぶりに先生のお広前に参拝させていただいた時、初参拝の日から一年が過ぎ去っていました。
 先生はもう、私のことなんて忘れているだろうと思っていました。
 ところが先生は、私の顔を見るなり、とても優しい笑顔でこうおっしゃったのです。
       
    
 「ようお参りやなあ。顔が見れて嬉しいよ。先生はあなたのことをずっとご祈念してたからなあ。ただの一日たりとも、あなたのことを神様にご祈念しなかった日はないよ。ずーとご祈念してたよ」
      
       
 私は驚きのあまり言葉が出てきませんでした。
 もしかしたら、この先生なら助けてくれるかもしれない!と思った私は、お取次を頂くために、お参りを続けていく覚悟を決めたのです。
    
   
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 それからは、お取次の中で「天地の道」に沿って歩いていく生き方を教えていただくようになりました。まさに、「拝み信心」ではなくて、教祖様のご信心を教えていただいたのです。
      
 そして、私は世界で一番、馬鹿で、惨めで、愚か者で、でもそんなこと自分の価値とは関係ないことを知ったのです。
 私は尊い命を頂いた、尊い存在であることを知ったのです。
 そんな私は世界で一番幸せだと感じるようになっていきました。
   
     
 私は、追い詰められて、苦しくて、苦しくて、どうしようもなくなって、それでやっと、「自分の力でなんとかできる」「拝み信心でなんとかしよう」とい    う甘い考えを、手放さざるを得なくなったのであります。
                  
 私にとってこの一年間は、自分の事を知るとても大切な時間となりました。その頃の自分を思い出す度、「かわいいなあ」「かわいそうになあ」「一人で頑張ってたなあ」と愛しく思い起こされてくるのであります。
    
         
 今、自分の力ではどうにもできず、苦しみあがいている人々がどうぞ、ここ平戸教会のお結界にお引き寄せいただけますように。
 そして真の信心に出会えますように。
 本日も神様にご祈念させていただいております。
 神様、金光大神様、ありがとうございました。
     
 金光教平戸教会 細川佳世
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 佳世先生の箱庭
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