御礼を忘れる=自分の命を軽く扱う=寂しく苦しくなる【コメント4】

みなさまこんにちは。佳世先生です。

去る10月13日、私が命を助けていただいた金光教尼崎教会において、生神金光大神大祭(年に一度の大きなご祭典)が仕えられました。


私は講師のお役もいただき、展信先生は参列のお役もいただき、ただただ感激しながら参拝のおかげを蒙らせていただきました。そして、展信先生と共に数日前からご祭典の準備の御用奉仕におつかいいただきました。
そして当日を迎え、とても厳かなご祭典に、たましいが震え涙が止まりませんでした。

※講話を聴かれたい方は佳世先生までご連絡ください。神様にお届けさせいただき、ご祈念させていただき、音声をお送りさせていただきます。

 

 

私はいつもどこにいても「命を助けていただいた」という言葉を口にいたします。
それはどういうことかと申しますと、一度は死んだ命であるという意味です。
  
私の命が今もここにありますのは、信心の師匠の何万時間の「お取次」があってのことでございます。
私はお取次によって、信心の仕方を一から教えていただき、信心して助けていただいたのです。
  
一度は死んだ私に、新しい命を吹き込んでくださったこと。 
そして現在、教師にお取り立ていただいたこと。
この命は、人助けの御用にお使いいただかないと、喜べない命であることを感じています。

 

 

私はどこに居ても、何をしていてもこう思うのです。

「私はもう、ここには居なかったはず・・・」
「私はこうして、笑うことなどできなかったはず・・・」

そして日に日に、その重みを深く感じます。
時が経てば経つほど「命を助けていただいた」ということの意味を考えます。
  
しかし、その感動と喜びはいつも感じているはずなのに、忘れてしまう時があるのです。
なぜなら、生きていると日々いろいろな問題が起こってくるからです。
   
身体の健康の問題
家庭の健康の問題
お金の健康の問題
人間関係の健康の問題
   
問題が起こるとつい「命を助けていただいた」というところから焦点がずれてしまい、目の前の問題に気を取られてしまいます。
そして、感動と喜びは奥のほうに押しやられてしまい、隠れてしまい、目の前の問題解決を優先してしまうのです。
命を助けていただいた喜びを一時でも「忘れる」ということは、自分の命を軽く扱い、粗末にしてしまうということです。
自分の命を軽く扱い、粗末にすると、私の心はどんどん寂しく苦しくなっていくのです。
そしてついに、心の健康の問題が起こってくるのです・・・
  
それが天地の道理でございます。

 

 

そうならないために。
このご大祭日という「お礼を申し上げる日」を神様が私にご用意くださっているのです。
   
命を助けていただいた金光教尼崎教会のご大祭日。
この日に、この瞬間に、しっかりとお礼を申し上げるために、ここまで展信先生と共に日々信心のお稽古をさせていただきました。
私たち夫婦がこうして「お礼の信心」を大切にさせていただくこと。
それは、すべては平戸教会の氏子の助かりに繋がっていくことを改めて感じています。
  
この度は、尼崎教会のご大祭のお徳をたっぷりといただきました。
そしてここからも、展信先生と共に「命をかけて平戸の氏子を守りたい」という同じ祈りを神様に捧げながら、日々平戸教会のお広前を守らせていただきます。神様、金光大神様、この度は誠にありがとうございました。

(海の写真は、参拝道中の佐世保港です)
  
金光教平戸教会 細川佳世

 

           

                     

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