喜びの気持ちは、湧いてくるものではなく育てるもの

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。    

私は中学生の頃に心が落ち着かなくなってきて、高校での人間関係に行き詰った事に拍車がかかり、気付いた時には心が100%壊れていました。
       
夜が来ることが怖くてしかたありませんでした。
誰もいない暗闇の中、一人でいると、いてもたってもいられない苦しさに飲み込まれ、どうしようもなく、すべてを終わらせたい衝動にかられました。
     
      
教会で生まれ育った私は、「神様に御礼を申し上げることの大切さ」を頭では理解していましたが、そんな心の余裕なんてありませんでした。
       
「お礼が大切です」と言うのは簡単ですが、そう簡単ではなかったのです。なかなか自分の心は、自分が思ったようにはならないんです。
      
その時の私には「感謝して生きる」だなんて、そんなこと到底できそうもありませんでした。
          
生きることも死ぬこともできず、生きるか死ぬかの葛藤と何度も闘っている間に朝が来ることの繰り返しでした。
   
   
本日は、そんな私が神様に出会い、信心のお稽古をさせていただき、おかげをいただいていくきっかけとなったお話をさせていただきます。
   
  
  

  
  
    
私は19歳の時に金光教のお取次をいただくようになり、信心の師匠に出会いました。
自分の悲しい気持ちや、苦しい気持ちを、毎日お取次の中で聴いていただくようになりました。先生は毎日、何時間でも親身に聴いてくださいました。
      
そんな中で私は心が癒やされ、出来ることが一つ、一つ、増えていきました。大学に行けるようになった。アルバイトも出来るようになった。友人と遊びに行けるようになった。
     
しかし、悲しい気持ちも、苦しい気持ちも、私の中から何年経っても尽きることがなかったのです。
   
    
「もっとありがたく生きたいのに…」
「もっと前を見て生きたいのに…」
   
      
自分の心も身体も、自分では思い通りにならず、次から次へと「自分はなんてダメなんだ…」「自分なんて価値がない…」という悲しい気持ち、苦しい気持ちが湧いて出てくるのです。
      
そんな私の心の中はいつも真っ暗闇で、自分が見るものすべての景色に色を失い、途方にくれていました。
    
      
どれだけお参りしても、先生に聴いてもらっても、心が楽になっても、出来ることが増えても、私の中から「ありがたい」とか「嬉しい」とかそういった気持が湧いてくることがありませんでした。
   
      
ありがたいことは頭では分かっているのに、心の底から湧いてくることがない。私はそれが苦しかったのです。いつも、しかめっ面で、不満ばかりで過ごしている自分が嫌で、苦しかったのです。
   
   
   

   
  
    
それは、ある日のお広前でのことでした。
お広前はいつも、大勢の参拝者で溢れかえっておりました。
     
「ありがたい」と涙を流される方。
「助けていただいた」と嬉しそうに笑っておられる方。
     
そんな参拝者の方の幸せそうな様子を横目に、私はとても焦っていました。
    
     
「なぜ、私は他の方みたいに、ありがたいとか、嬉しいとか、そういう気持ちが湧いてこないの?」
    
「私は、どうやっても苦しい気持ちしか湧いてこない。やっぱり私がダメ人間なんだ!」
    
    
変われない自分を責め、追い込まれていきました。
このままだと、神様からも先生からも見捨てられる気がして、その前に逃げてしまいたい気持ちでいっぱいでした。
      
     
私はお結界にすすみ、その気持ちを先生にお届けさせていただきました。すると先生がにっこりと優しいお顔で、こうお諭しくださいました。
  
   
「あのなあ佳世さん、嬉しいとか、ありがたいとか、そういう喜びの気持ちはなあ、湧いてくるものではなくってね、育てるものなんや」
    
     
私はとても驚きました。先生は続けて、またにっこりと優しいお顔でこうおっしゃいました。
     
      
「佳世さんは今、辛く苦しい一日の中にいる。本当に苦しいやろなあ、かわいそうになあって思うよ。でもなあ、その一日の中にも、神様がくれた光り輝く出来事が必ずあるはずなんや。その神様からのプレゼントを見つけてごらん。そして神様からプレゼントを貰ったお礼を言うことで、だんだんと喜びの気持ちが育まれていくんや」
    
   
     
私は大きな衝撃を受けました。
「自分の生き方を変えないといけないんだ!」
「ありがたくなるのを待っていても、一生ならないんだ!」
   
     
その時、真っ暗だった一日の中で、何か一つでも良かったことを探し、私は先生にこうお届けしました。
     
「先生、そういえば今日は久しぶりに実家の母から電話がありました」「神様、ありがとうございます」
     
そう言ってみました。
心から言えなくても、言ってみました。
     
するとどうでしょう。
それで心が晴れるわけではなかったけれど、真っ暗闇だった一日に、小さな灯りがともったような温かさを一瞬感じたのです。
   
   
   

   
   
    
私は毎日毎日、それを続けていきました。神様がくれた光り輝く出来事を探してお礼を申し上げることを。
     
    
苦しみで、一日を真っ暗に塗りつぶしてしまうのはもったいなくて、良かったことを一生懸命探し、お礼を申し上げました。毎日毎日続ける中で、いつのまにかその小さな灯りが、大きくなっていきました。
        
一日を真っ黒に塗るか、違う色で塗ってみるかは、自分自身にしか出来ないことだったのです。

そしていつしか私は、「ありがたいなあ」「嬉しいなあ」という心が湧いてくるようになっていったのです。
   
  
   

  
  
     
大切なのは、生き方のお稽古をさせていただくことです。
それが信心のお稽古なのです。
     
         
お参りして、苦しい気持ちを聴いていただいて、心が和らいで、安らいで、安心して、今、頂いているおかげに御礼を申し上げるのです。
すると、頂いているおかげが育っていくのです。
花が咲くし、実がなるのです
   
    
なかなか簡単にはできません。
できなくても、それでも、お稽古をしていくのです。
     
「こういう自分にならせてください!」と神様に願いして、何度も何度もお稽古をさせていただくのです。
      
そうやって辛抱強くお稽古していくと、少しずつ少しずつ器が出来るようになって、出来た分だけおかげが入ってくるようになるのです。
    
     
   
私は現在、金光教の教師となり、日夜平戸教会の氏子の助かりをご祈念させていただいております。
しかし夜に休む前は必ず、自分のご祈念をさせていただく時間を大切にしています。それは「ここまでいただいたおかげのお礼」のご祈念の時間です。
        
どれだけ今が幸せでも、生きているかぎり難儀なことはたくさん起こってきます。私の身の上にも、氏子の身の上にも。       
しかし、その難儀をそのままにせず、生き方をお稽古し、おかげを頂く器を大きく大きくさせていだだきたいと願っております。
        
神様、金光大神様、本日も一日ありがとうございました。
    
金光教平戸教会 細川佳世

 

 

         

             

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