座礼(その1)ありがたいから、自然とひれ伏したくなる【コメント2】

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。

来る3月1日は、平戸教会におかれます月例祭がお仕えになられます。
現在平戸教会では、ご祭典を”座礼”でお仕えさせて頂いております。
座礼とは、正座をしてお仕えさせていただく礼儀作法のことを言います。
  
   
以前は、椅子に座ってご祭典をお仕えさせていただく”立礼”でしたが、昨年平成30年の生神金光大神様のご大祭日をもって座礼となり、お広前から椅子は無くなり、参拝者も、祭員も、共に座礼でご祭典をお仕えさせていただくようになりました。
   
       
色々な方から「なぜ、座礼にされたのですか?」と聴かれることがございます。
            
一言で申し上げると、私の中から湧いて出てくるのは「神様がありがたい」という気持ちだけのような気がします。
          
神様は、医師からさじを投げられた私を、助けてくださいました。
神様は、「私にとっての金光大神様」に出会わせてくださいました。
神様は、孤独だった私に、たましいの親、夫、我が子、さらには氏子までもお授けくださいました。    
     
私は、神様と金光大神様に出会わなければ、孤独の苦しみの果てに、すでに自ら命を絶っていたことと思います。
   
      
また、私だけではございません。
私が御用させていただいているお広前には、
「お広前にお引き寄せを頂かなかったら、きっと私は自殺していた」
「お結界で苦しい気持ちを聴いてもらえるから、今なんとか生きてる」
「信心させていただき、目が見えるようになった。生きていてよかった」
とおっしゃる方々がいらっしゃいます。
       
     
神様というお方は、私にとっても、お参りされている方々にとっても「命の恩人」なのです。
        
          
ありがたいから、自然とひれ伏したくなる自分がいる。
ありがたいから、頭で考える前に、身体が先に動いてしまう。
ありがたいから、神様から頂いているもの全てを使って神様に向かいたくなる。
     
それが正直な気持ちなのです。
       
         
例えば、「命の恩人」に対してペコリと会釈するだけなんて、誰だって心苦しい気持ちになりますよね。やっぱり心と身体は、切り離すことができないんだと改めて感じております。
     
   
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また、「神様のありがたさ」を頭で考えるのではなく、心と身体で分からせて頂くことの大切さを思います。
    
あるお教会でのことです。
      
ある日、ナイフを振り回す青年が参ってこられました。
そのお教会の先生は、彼にこうおっしゃったそうです。
    
「正座して、しっかりおでこを畳につけてひれ伏してごらん」
     
しばらくしてご祈念を終えた彼が、こう言われたのです。
       
「先生、これいいですね」
「俺、こんなに頭下げたことなかった。親にも学校にも会社にも。神様ってよう分からんけど、こうやって頭を下げないといけない相手やと分かった。そういう相手やと思うとすごいお方やなっていうのは、分かった」
    
      
そのように言われたのです。
      
私は深く納得させていただきました。頭ではなく、身体で、感覚で「神様がすごいお方だと分かる」ということは、神様からおかげをいただく器が出来ているのです。だからこの青年はおかげを頂き、助かっていかれるのです。
    
   

  
    
「賢いばかりで我が身の徳を失っておる」と金光教教祖は残されておられます。
      
ここ、お広前という神様がいらっしゃる場では「正座をして、ひれ伏す」ということを私たち氏子は忘れてはならないと思っています。
       
    
私は、お参りされるいる方に、何度もお伝えしております。 
おかげをくださるのは「神様」であること。
あなたを助けてくれるのも「神様」であること。
だから、お広前では正座をして「神様」に平伏させていただくこと。
また、お広前を出る時も、立ったまま障子を開けてしまうのではなくって、座って丁寧に開けること。
『人間は神の氏子、神様のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神様に向けて信心せよ』という教えがありますように、この身と、この心を、神様に向けるようにと、教導をさせていただいております。
  
      
私自身も十分なんてことはありません。至らない所も多々あります。そういったご無礼、不行き届き、お粗末を神様にお詫び申し上げ、日々お稽古をさせていただいております。
少しでも神様が立ち現れてくださるお広前になりますように。そう願いながら、ここからの私自身のお育てをお願いさせていただいております。
         
神様、金光大神様、本日も一日ありがとうございました。
      
金光教平戸教会 細川佳世

     

                

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石原香

佳世先生 こんばんは
わたしも、お広前で神さまにひれ伏しているときは、とても落ち着く気持ちになります。正座をして心を整え、神さまに向かいひれ伏すことは、なぜこんなにも心が落ち着くのでしょうか?
この間のお参りのときも、まるで自分の家に帰ってきたかなような安心感がお広前とお結界にはありました。まだまだ、同じことを繰り返しているわたしですが、そのナイフを振り回す少年の気持ちはわかります。 貴子先生も、わたしのお話を冷静にお聞きくださり神さまに近づいていく器を作るのが大切とおっしゃいます。これから迎える夜はとても怖くて嫌だけれど、わたしはひとりぼっちじゃない。
なんとなくはじまってしまったこの病をどうやって終わりにしたらいいか分からないだけです。
わたしの中には、ちゃんと信心したい気持ちはある。だけど同じことを繰り返している。身体が動かないんです。ご飯作ろうとか。いままでの疲れからだとは思うし、一人で食べたくないからだと思います。
世の中には、たくさんの難儀な方がいらして実際に自殺されてしまう方もいる。だけど、わたしは、決して自殺はしません。生きていたら、必ずいいことも嬉しいこともあるから。????????
いつも、お祈りありがとうございます????

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細川 佳世

香さんこんばんは。貴子先生のところへお参りができたこと、とてもとてもありがたかったです。神さまにひれ伏しているとき、香さんはとても心が落ち着くのですね。『天地金乃神は人間の親である。信心する者は、一生死なない父母に巡り会い、おかげを受けていくのである』という御教えがあります。
お広前には、この一生死なない父母である「天地金乃神様」がまつられています。つまり香さんのお父さんとお母さんです。
>なぜこんなにも落ち着くのでしょうか?
それは、ずっとひとりぼっちで寂しい想いをされてきた香さんが、お父さんとお母さんにしっかりと抱かれているからなんです。
毎日同じことを繰り返してしまうこと、苦しいですね。けれど、たとえ摂食障害が治らなくっても、神様は一生香さんの側にいて、香さんの背中を撫でてくださいます。一緒に苦しんでくださいます。寂しい時は一緒に涙を流してくださいます。それは、貴子先生も私も同じです。
愛情には底がありませんので、これからもたくさん神様の愛情をいただいていきましょうね。細川佳世

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