祈りとは、常に行動が伴うもの【コメント2】

みなさまこんにちは細川佳世です。

私自身が心の病を患い、助かりを求めてお教会に初参拝をさせていただいたのは、19歳の時でした。
      
私は初参拝の後、こう思いました。
「今日はお取次頂けてありがたかった~(^^)ここからはなんとか自分の力で頑張ってみるぞ!そして、助かったら、先生に御礼を言いに、御礼参拝をさせて頂くぞ!」 
         
しかしその後も、自分の力ではどうしようもない出来事が重なり、どんどん追い詰められ、私の心は壊れていきました。「死にたい。誰か助けて!」そう思った私は、あの時お参りをした兵庫県の尼崎教会へ、もう一度お参りしてみようと思い立ちました。
   
     
初参拝の日からすでに一年が過ぎ去っていたので、先生は私の顔など忘れているだろうと思い、恐る恐るお結界へ進むと、先生はとても優しい笑顔でこうおっしゃいました。   
      
「ようお参りやなあ。顔が見れて嬉しいよ。先生はあなたのことをずっとご祈念してたからなぁ。ただの一日たりとも、あなたのことを神様にご祈念しなかった日はないよ。ずーっとご祈念してたよ」
         
私は驚きのあまり言葉が出てきませんでした。たった一度会っただけの私の事を、毎日祈って下さっていたなんて……。朝から晩までひっきりなしに、たくさんの方が助けを求めて参拝されるお教会なので、尚更に私は驚きました。
それからというもの、私は、先生の優しい笑顔に心から安心し、十数年のもの間、お参りを続けていくことができました。

思えば、先生は初参拝のあの日からいつも、私のことを祈り続けてくださり、お結界でお取次くださり、遠く離れてはメールでもお取次をくださり、私はそのご愛情をたっぷりと身に受けながら、ここまで助けて頂いてまいりました。「祈り」というのは、ただ手と手を合わせて、祈り言葉を唱えることにとどまらず、常に行動が伴うものだと教えていただいております。命を懸け、命を削っていただいたからこそ、今私の命はここにあるのでございます。
   
    
「人は、自分がしてきてもらったことは人にしやすい。反対に、自分がしてきてもらってないことは、人にしにくい」と言います。
     
数年前、教師にならせていただいた私は、「今度は、私がしていただいてきたことを、どうぞ氏子にさせてください」と祈りながら、ここ平戸教会のお結界で氏子の参拝を待たせていただいておりました。
       
    

  
   
私が、その氏子と出会ったのは、二年前のことでした。きっかけは、一通のメールからでした。
           
「佳世先生、はじめまして。HPを拝見いたしました。私はこのまま生きていく自信がありません。死んだ方がましだと思い、自殺を考えています。でも死ぬのも怖いです。助けてください!」
      
SOS
の内容のメールに、私はすぐにお返事をさせていただきました。 
         
「先生は、絶対にあなたを助けます。何があっても助けます。だから、あなたも絶対に諦めないでください」
       
そのようなお返事させていただき、しばらくの間、メールの交換を続けさせていただいておりました。
この氏子は、ここ平戸教会から遠く離れた場所に住んでおられ、「海外にいるのでお参りは出来ません」とおっしゃるのです。
       
私はそれを聴いて、目の前が真っ暗になりました。なぜならこの方は、参拝しないと助からないほどの、深い心の傷を抱えておられたからです。    
なんといっても、信心には「お参り」は欠かせません。それも、深い難儀から助かっていくためには、月参拝や、日参を続け、日に日にお取次を頂いていくことがどうしても欠かせないのです。 
  
     
神様は、『世間になんぼうも難儀な氏子あり 取り次ぎ助けてやってくれ』とおっしゃっておられます。しかし、取り次ぎ助けることもできない・・・この方はもう助からないのか・・・絶望いたしました・・・。
  
しかし、神様の可愛いお子様が、死にたいと泣いているのです。助けてと叫んでいるのです。なんとしてもこの方を助けたい。そのために、なんとしてもお参りをさせてあげたい。お取次を頂かせてあげたい。信心して、幸せになってほしい。胸を張って、堂々と、幸せだなあって言いながら生きていってほしい。
       
その日から神様に、この氏子のお引き寄せを願わせていただく日々が始まりました。日々、メールや電話でお取次を続けさせていただき、私なりの「祈り」を実践させていただきました。命を懸け、命を削るとはどういうことかと求め続けながら、気づけば一年間、メールや電話でのお取次を続けることができました。いつ切れてもおかしくない御縁を守り続けられたのは、一生懸命の祈りを、神様が受け取ってくださったからこそだと思っております。
    
    
いつしか私は「もう、お参りが出来なくても、ずっとこの氏子に寄り添いながら、一緒に生きていこう!」そう思うようになりました。すると、あらゆるお繰り合わせをいただき、何千キロもの御縁の糸を力強く手繰り寄せるかのように、無事に平戸教会のお広前にお引き寄せをいただかれたのです。遥々何千キロもの距離を越え、海を越え、国境を越え、参拝されたのです。
    
そしてお結界に進まれました。私は、お顔が見れただけで、本当にありがたくて仕方がありませんでした。
    
「よくお参りでしたね」
    
かわいい氏子のお顔を見ることができた私は感無量になり、それ以上の言葉が出てきませんでした。
   
氏子は、ボロボロと涙を流されておられました。
       
お結界という、神様と人とを結ぶ場所で、神様と氏子が繋がった瞬間を目の当たりさせていただき、ありがたくて言葉にならず、神様に御礼申し上げさせていただきました。
 
 

   
    
「自分がしてきてもらったことは人にしやすい。反対に、自分がしてきてもらってないことは、人にしにくい」
          
私を祈り続けてくださった先生のお姿を思い浮かべながら、それを今度は氏子にと願い、祈り、行動していく中で、神様がお働きくださり、平戸教会のお広前にお引き寄せくださいました。 
      
祈りとは、ただ手と手を合わせて、祈り言葉を唱えることにとどまらず、常に行動が伴うものです。
今日も、今もどこかで苦しんでいる方と繋がれるように、祈りながらお結界に座らせていただきました。    
神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世

 

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コメントはありません

松崎信子

考えられないことが起きたんですねぇ。
神様のお働きは人間の思いを遥かに超えたところからやってくるんですねぇ!

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細川 佳世

松崎さん、こんにちは(#^^#)はい✨とてもありがたかったです。私自身がしていただいてきたことを、どうか氏子にさせていただけますように、ここからもお育ていただいてまいりたいと存じます。細川佳世

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