みなさまこんにちは🌸細川佳世です。
“神様は、人間の親“
幼い頃から、それを耳にする度に、私の心に不安と緊張が走りました。なぜなら、血縁の「親」しか知らなかったからです。
幼少期の私は、いつも家族の心配ばかりしていました。
お母さん、友達いないからさみしいのかな。
お父さん、誰も味方がいなくてさみしいのかな。
姉や弟は、学校でいじめられてないかな。友達いるのかな。
そんなことばかり考えて毎日を過ごしていました。
幼心に、いつ家族がバラバラになってしまうかわからない恐怖でいっぱいだったのです。
もし家族がバラバラになったら、私はお母さんとお父さん、どちらも好きだから、どちらについていこうか…
もし姉と弟がお母さんについていくなら、私はお父さんについていこう…
そんな事を考え出すと、夜は布団に入ってからも眠れなくて、苦しかったことを今でも覚えています。
そんな私にとって”家庭”は、自分が守っていかないといけないもので、「安心して自分を表現できる場所」ではありませんでした。
私が無防備に笑って、泣いて、自分を表現した時、親が喜んでくれた時もありましたが、一方で親の困った顔、呆れた顔も見逃したことはありませんでした。
「私は、親の喜ぶいい子にならなければ!」
「いい子でさえいれば、この家族はうまくいく」
家族を繋いでいるのは自分だと思い込んでいた私は、
「感情や気持ちを表に出すことは、良くないこと」と思い、感情に蓋をしました。
しかしこの生き方は、様々な心の病の苦しみへと繋がっていったのです。
◯
うつ・摂食障害・対人恐怖症など様々な精神疾患に苦しんでいた私は、後に信心の親となる、先生のお広前に参拝させていただき、お取次を頂くようになりました。
「感情や気持ちを表に出すことは、良くないこと」と思っていた私は、先生の前で、まるで操り人形のように感情が無く、自分の本心を隠すために無理してニコニコと笑い続けていました。
そして、泣きたい気持ちはあるものの、何年お参りしても、涙が出てきませんでした。
それほど、私の心の蓋は岩のように大きく、自分でなんとかしようと思ってもできないものだったのです。
しかし諦めずに神様に願っていきました。
「いつか、お結界で自分の思いの丈を、神様に聴いて頂くおかげをください」と。
そうやって、お参りして、お取次いただいて、祈っていく中で、神様からご時節をいただいたのです。だんだん自分の感情を抑えることが以前のようにできなくなってきて、ある日お結界で、子どものように泣いて、子どものように喚いてしまったのです。
「先生、私は、ずっとひとりぼっちだったんよ!どこにも居場所がないんよ!先生なんとかしてください!」
私はわれに返り、最悪の状況を想像しました。
「先生は、困って、呆れた顔をするに違いない」
「嫌われるかもしれない」
そうやって、顔色を伺っている時間ほど苦しい時間はありません。
ところが先生は、とても嬉しそうに、まるでわがままな子どもが可愛いように、にっこりと笑ってくださったのです。そしてこうおっしゃったのです。
「佳世さん、どこにも居場所がないって言うけど、ここが居場所やないか。神様のおられるところ、先生のいるところ、このお広前こそがあなたの居場所やろうに。だからずっとお広前におったらええんやで(^^)」
私はその時の先生の、我が子を包み込むような温かな表情に、心から安心したのです。
「感情や気持ちを表に出すことは、悪い事ではないんだ!」そう思えるようになった私は、先生の前で無理してにニコニコと笑わなくてもよくなっていきました。
そして少しずつ、神様に本当の自分を見つけていただいて、泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑う、血の通う人間に生まれ変わらせてくださいました。
◯
このような御教えがございます。
『神のことが知りたければ、親のありがたいことから先に知ったら、神のありがたいことも知ることができる。飛び越して、知れるようなことはない』
こちらは、「神様のことは、人を飛び越して知ることはできない」という御教えでございます。
先生は、いつも、どんな時も、ありのままの感情を「かわいい」と受けとめてくださり、親となって全てを包み込んでくださいました。
血の繋がりのある親とすら感じることができなかった「切れない繋がり」を、先生が神様の手となり足となって、私の親となってくださり、そうして時間をかけながら、たましいで繋がる親子にならせて頂いたのです。
私はその中で、「神様と私」との親子の繋がりが、命の深いところで感じられるようになっていったのです。
“神様は、人間の親“
生まれ変わらせていただいた今、それを耳にする度に胸にじんわりとした温もりと、神様の深いご愛情を感じ、目頭が熱くなるのであります。
金光教平戸教会 細川佳世
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佳世先生 いまお仕事が終わりました。わたしも気持ちが優し過ぎて感情に蓋をしていました。言いたいことが言えない。相手に嫌われるんじゃないか? 相手を傷つけるんじゃないか?といつも、相手の気持ちばかりを優先して自分を大切に出来なかった。まして、いろいろな介護の上での我慢が重なり弟の突然死のときは、車椅子の母親を連れての弟の看病 そして、弟の鬱の彼女が、実家に三カ月も立てこもりわたしには、居場所がなく、どこにいても不安でいっぱいで、いまは、誰もいなくなった実家にいられても、夜は辛かった体験がよみがえり過食。それは、一人で抱えた辛さからのストレスです。ある意味辛過ぎた体験は、介護うつにならざるを得ないような体験でした。だから、この苦しかった体験を忘れたくなり、一時は、過食やアルコール依存も重なり、パニック障害的に下剤と浣腸 これはPTSDのようなものです。なので自分を責めても仕方ないと思います。
わたしの気持ちを癒すのは絵になりほぼ一日中、絵を描いていたくなる。自分が可愛そうでそんなことをしたくないのに、してしまう自分が可愛そうで。自分を抑え我慢をしてひとりぼっちの実家を守らないとならない辛さからの病。佳世先生が周りの家族の方のことばかり心配されていたこと。良くお気持ちわかります。そして、神さまの前でもなかなか自分の本心が出せず、ニコニコと作り笑いをする。わたしのお仕事も接客業だし、明るくいつもしてないとならない。人間関係にも疲れ、だんだんとマイナス思考に。もともとがとても寂しがりやなわたしだから、やっぱり頼れり人が欲しい。旦那にも甘えられなかった。だけど、絵の教室に通えることが幸せで、また、たまに美術館や画廊に行けるのが幸せで、希望はあります。
どうか、こんな病になってしまったわたしのいままでの辛さや負担を思い、わたしのことをいつまでも見守っていただけるようによろしくお願いします。
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香さん、お仕事お疲れ様です。今日も香さんが生きていてくださること、摂食障害を抱えながらも今日もお仕事ができたこと、神様にお礼申し上げさせていただいております。
何をしても苦しい時、何をしても寂しさが紛らわせない時、そういう夜はたくさんあると思います。そういう時こそチャンスなんです。そのやり場の無い苦しみの矛先を、神様に向けて祈るのです。ひたすらに「神様、助けてください」と祈るのです。そのひたすらな祈りは、神様は必ず受けとってくださり、お働きくださいます。
今の接客業のお仕事、これだけしんどい中でもニコニコできるなんてすごいですね。なかなかできないことですよ。本当によく頑張っておられます。
お広前では、お結界では、本心をだせるようになれたらいいですね????お広前が、香さんの居場所になったらいいなあと願っております。そういうおかげをここからいただいていきましょう。
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実際には本当に自分を慰めながら、相手の幸せを祈りながらお仕事をしていて時々病でない人が羨ましくなり、落ち込んだりしてしまいますが、なるべく人を好きになるように、相手の良いところを愛するように努力しています。
だけど、体調悪く辛いときは、なるべくおしゃべりも辛いから、二階のカウンターだと人があまりいないのでそちらにいることが多かったり、だけど、帰ってきてみんなが楽しそうにおしゃべりしていたら、わたしもおしゃべりしたいなぁと思ったりします。さみしさと、煩わしさ 自由とさみしさ は裏表です。
一人は自由で気楽なんだけど、さみしい。介護中は、一人になれなかったから、ミスドに行って一人でぼーっとして癒されたくなった。だけど、いざ一人になってしまうと、何も食事を作る気持ちにはならないし、人恋しくなり人のいるところに行ってしまう。
佳世先生がおっしゃる通り、いまはただひたすらに神さまに祈るしかない状況です。神さまに祈りお広前で自分を表現できるように、甘えられるようになっていくこと。わたしの気持ちを吐き出せる場所 遠慮なくさみしいと、辛かったと言える場所
そんな場所があるだけで、気持ちは少しは軽くなるものです。次回のお参りは4月5日に決まりました。
飯田教会の周りも桜の便りが来そうです。神さまに祈り、自分もまた、苦しみを聞いていただく中で自分の信心のお稽古をしたいです。
いつも、お祈りありがとうございます。
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香さんが一生懸命にお仕事を頑張っておられる様子が目に浮かんでまいります(^^)聴かせくださってありがとうございます。
次回のお参りが四月五日に決まったのですね✨ありがたいです。
『お広前で自分を表現できるように、甘えられるようになっていくこと』
香さんがこうやって、願いを立てて、お稽古されることは本当に素晴らしいことです。ここから幸せになれるかどうかは、どれだけお取次の一言一言を大切に、忘れないように意識しながら、日々の生活でお稽古をされるかにかかってきます。しっかりとお稽古された人は、しっかりと神様に甘えられるようになり、信心が上達して、幸せになっておられます。佳世先生も喜んでご祈念させていただきます。
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