絶望の淵から、生きる意味を見出せた日(夏越感謝祭 祭典後の教話)

本日は、平戸教会におかれます「夏越感謝祭」が、教会長先生ご祭主のもと、麗しくお仕えさせていただき誠にありがたいことと存じます。
    
私たちは、生きている限り、様々な悩みや、とんでもない苦しみや、悲しい出来事が起こってくるものですし、時には、死んでしまいたいと思うことは、誰にだってあるものだと思っております。   
そんな時、何を心の支えにして、生きていくのかということが大切になってくると思っております。
  
   
私自身を振り返りましたとき、いつもこう思うのです。もしこのお道のご信心をさせていただいてなかったら、私は今頃どうなっていたのだろうか。私は、心の病の苦しみに襲われ、自ら命を絶っていたと思っております。
   
そんな私が、今こうして生きて、おかげをいただいておりますのは、信心をさせていただく中で生きる支え、つまり生きる意味、生きがいを、いただいたからでございます。
  
  
本日のお話は、今から十二年前、私が難儀の真っ只中だった時のお話をさせていただきます。神様は、私を助けるために、治療をするために、苦しみの根を断ち切ろうとしてくださろうとするのですが、その治療があまりにも痛くて苦しくて、逃げ出したくなるばかりでした。
   
だから神様は、ひとりでは乗り越えられないところを、一緒になって乗り越えてくださる、信心の師匠である先生を、私に差し向けてくださいました。先生は、私の親となってくださり、共に苦しんでくださり、共に喜んでくださり、一緒になって、神様の治療を乗り越えてくださったのでございます。
  
  

  
  
今から12年前。心も身体も一番苦しかったころ、私は妄想や幻覚に苦しんでいました。人に襲われて殺されるという妄想から抜け出せず、一歩外に出ると、道を歩いている人の手にナイフが握られているように見えて、逃げるように引き返してくることが度々ありました。
   
お参りするのも命懸けでした。お教会にたどり着くまでの服装は、季節は夏にも関わらず、真っ黒な長袖のジャージ上下着ていました。さらに、隙を見せると人に襲われると思い、女性だと分からないように黒のキャップ帽を深くかぶり、髪の毛を中に入れて、メガネと、マスクをつけていました。そして、自転車のハンドルを左右に揺らして蛇行運転をし、ペダルをガチャガチャと音を立ててこぎ、周りからみるといかにも「不審者、怖い人、近寄りたくない」という人物を自ら演じ、身を守っていました。
  

私は、ひたすらにお教会に足を運ばせていただいておりました。
この苦しみと恐怖から解放されたい一心でした。

苦しい・・・死にたい・・・先生のお結界で泣きながら、必死になって救いを願い続けました。
来る日も来る日も「助けてください」「助けてください」とすがりつき、それしかできませんでした。ある日、私は泣きながらこのようにお届けさせていただきました。
  
  
「先生、こんなに苦しいのに、生きないといけないんですか?何のために生きたらいいんですか?生きている意味がわかりません。私のことが大事なら、命を引き取ってください。もう、楽にしてください」
   
先生は、私の苦しい気持ちを、一つ一つ頷きながら聴いてくださり、そしてこのように仰ってくださいました。
   
「佳世さん、毎日、毎日、一日、一日、必死に生きていてくれてありがとう。生きてください。何がなんでも生きてください。苦しいやろうけど、かよさん生きてたら、そしたら先生は嬉しいし、よかったと思えるから。こんな理由で申し訳ないけど、生きてて。生きててくれたら、顔が見れたら、それで嬉しいから」
  

私は涙が溢れていました。
   
私はいつしか「先生が悲しむから、生きなければ」と思うようになりました。こんな自分を、必要としてくれている人、「生きてさえいてくれればそれでいい」って言ってくれる人がいることは、私にとっては十分、生きる意味、生き甲斐になっていたのです。この世の中でたった一人でも、「本当の私」を見てくれて、必要としてくれる人がいるのであれば、どんなに毎日が苦しくても、死にたくても、生きたいと思えたのです。 
  
  

  
  
それから私は、生きて、「信心をさせていただきたい」「助かりたい」と思うようになり、続いて、参拝して、お取次をいただいて、幸せになる生き方を教えていただき、一生懸命に信心のお稽古をさせていただきました。
     
続いて信心をさせていただく中で、神様が、苦しみの根を断ち切ってくださったので、今ではもう二度と、あの頃のような苦しみや恐怖を、味合わなくていいようにしてくださっております。
    
私が、痛くても、辛くても、生きて、信心をさせていただきたいと思い続けられたのは、先生が私の親になってくださり、共に苦しんでくださり、共に喜んでくださり、一緒に乗り越えてくださったからこそでございます。
   
   
12年前のあの日、私は、あまりの苦しさから、泣きながらこのようにお届けさせていただきました。
    
「先生、こんなに苦しいのに、生きないといけないんですか?何のために生きたらいいんですか?生きている意味がわかりません。私のことが大事なら、命を引き取ってください。もう、楽にしてください」
   
先生は、私の苦しい気持ちを、一つ一つ頷きながら聴いてくださり、そしてこのように仰ってくださいました。
     
「佳世さん、毎日、毎日、一日、一日、必死に生きていてくれてありがとう。生きてください。何がなんでも生きてください。苦しいやろうけど、佳世さん生きてたら、そしたら先生は嬉しいし、よかったと思えるから。こんな理由で申し訳ないけど、生きてて。生きててくれたら、顔が見れたら、それで嬉しいから」
  
  
私は今でも、涙が溢れてまいります。
    
この世の中で、たった一人でも、「生きてさえいてくれればそれでいい」って言ってくれる人がいることは、私にとっては十分、生きる意味、生き甲斐になっているのです。
    
人生の中には、とんでもない苦しみがあるものですし、時には、死んでしまいたいと思うことは、私にもあります。
    
しかし、生きていく支えを頂いていること、生き甲斐をいただいていること、それこそが、私がこのお道の信心をさせていただいて、何よりのおかげだったと思うことです。
       
このお道の信心は、「願えば叶う」というような、何かご利益をいただくためのご利益信心ではありません。このお道の信心は、お取次をいただいて、信心をさせていただいて、苦しみの根を断ち切っていただき、神様のご愛情に触れて、嬉しく、楽しく、幸せになっていくこと。それこそが、このお道の信心のありがたいところだと思っております。
  
  
最後に、御教えを拝読させていただきます。

「天地金乃神様は天地を一目に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、神様のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神様に向けて信心せよ。何事も無礼と思わず一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な人を助けてやるがよい」

    
本日はご静聴いただきありがとうございました。

(令和元年7月1日夏越感謝祭 祭典後の教話)


 

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