みなさまこんにちは。細川佳世です。
今から15年前のこと。
私はいつもイライラしていました。外を歩けばイライラ。人とすれ違えばイライラ。自分にイライラ。教会にお参りしてお広前でイライラ。
もう、何に対してイライラしているのかが分からないくらいイライラしていました。その当時の私の日記には「自分は故障してる人間だ」と書かれてありました。
当時私は救いを求めて教会にお参りさせていただいておりました。来る日も来る日も、お取次をしてくださる先生に苦しい気持ちを聴いていただいて、祈っていただいて、毎日先生のお取次を支えになんとか生かされて生きていました。
疑いの心でいっぱいの私は、優しい先生の言葉、態度、すべてが”演技”なんだと思えてきて、またイライラ。かけていただく優しい言葉にさえ、騙されるものかと自分に言い聞かせながらイライラ。
イライラの原因は何だったのでしょうか。
今思うに私はただ、さみしくてさみしくて仕方がなかったんだと思います。こんな故障している人間のことを、誰も好きになるはずなんてないし、一生ひとりぼっちのまま死んでいくんだろうと。
誰も自分のことなんて分かってくれなくて、見てくれなくて、聴いてくれなくて、世界でひとりぼっちで、イライラしていたのです。
その日もお参りさせていただいて、先生のお取次を頂きながらもイライラしていた私は、口では言えないのでノートにこう書きなぐりました。
「先生に腹が立って仕方がない」
そしてそのノートをお結界に持っていき、先生に渡しました。まさに八つ当たりです。先生は、私のために時間を割いて、命を削って、難儀な私を助けてくださっているというのに、私は助けて頂いている先生に向かって「腹が立つ」なんて、八つ当たりも酷すぎます。でも、行き場のないイライラをどこにも持っていけなくて、人のせいにすることでしか自分を保つことができなかったのです。
ところが先生は、そのノートを見て困った顔などひとつもされませんでした。とても優しいお顔で、私のほうを見て微笑んでくれて、受け入れてくれたのです。
お広前という同じ空間で、同じ場所で、目と目を合わせて向き合っていただく中で、「本当のこと」を神様が教えてくださる時があります。その先生の優しいお顔は、私のことを心から「かわいい」と思ってくれている、そんな慈愛深いお姿、それが真実だったのです。私は、「これは演技なんかじゃない」と腹の底からわからせていただいたのでした。
先生が言ってることは嘘だ、演技だ、私を助けるために我慢してるんだ、そう思い込んでいた自分が、お取次を頂く度に、
「私が間違っているのかもしれない。私が見ている世界のほうが間違っているのかもしれない」
そう感じるようになっていき、抱えていた疑いと共に、自分がガラガラと音を立てて崩れ落ちていきました。それは、疑いばかりの自分が死を迎えた瞬間でした。泣き叫ぶほどに痛くて、苦しい瞬間でしたが、私にとって何よりの喜びとなりました。
苦しみの本質は疑いです。その疑いを神様が断ち切ってくださったのですから、私にとって何よりの喜びでした。
お取次を頂くたびに、疑いに支配されていた自分が死んでいく。がんじがらめになっていた自分が解放され、自由になっていく。
そして、死んだ後に生まれてくる新しい自分は、とても心が澄んでいて綺麗でした。外の空気が美味しいと感じたり、自然が綺麗だと感じたり、人に優しくなれたり、神様から頂いている本来の「たましい」が、少しずつ磨かれて顔を出し、それはキラキラと輝きを放っていたのです。
「先生!なぜ私は生かされてるんですか?」
そう言う私に、先生はまたにっこりと微笑んでくださり、こうおっしゃってくださいました。
「大切だから」
このお取次は、15年前に頂いたものですが、今の今も嬉しくて涙が流れてきます。ひとりぼっちだった私のたましいに触れていただいたその喜びは、どれだけ時間が経っても忘れることはありません。
やがて、この御恩に報いることが私の生きがいとなりました。お広前の守として、平戸教会に参ってくる氏子らのたましいの親にならせていただき、傷ついたたましいに触れさせていただきたい。これまで先生にしていただいたように、神様のご愛情で包ませていただきたいと切に願っております。
神様、金光大神様、ありがとうございました。金光教平戸教会 細川佳世
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