本当に聴いてもらいたかったこと

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。

私は過去、たましいの親である先生に、自分の気持ちを聴いてもらう度に「聴いてほしい」という気持ちがエスカレートしていきました。
自分の話を聴いてもらって理解してほしいと願うことはごく自然なことですが、私は病的なまでに、強烈に、それを求めてしまうのです。

「私がどんなに苦しいか、聴いてほしい」
「私がどんなに辛いのか、聴いてほしい」

ところが私は、毎日何時間も聴いてもらっているにも関わらず、「聴いてもらっている」という感覚が得られませんでした。だから私は、さらに激しく、自分の苦しみを聴いてもらう努力を続けました。しかし、どんなに詳しく自分の苦しさを説明しても、あの手この手でわかってもらおうとして訴えても、それでも「聴いてもらった」と思えなかったのです。

「全然聴いてくれない」という感情は、悲しさというよりはもっと激しい怒りと表現した方がふさわしいかもしれません。聴いてくれないことへの苛立ちがなかなかおさまってはくれず、その苛立ちを先生にぶつけてしまいました。

「先生は、聴いてくれないし、わかってくれない・・・」

私にとって先生は、唯一の味方であり、かけがえのないご存在でしたから、こうやって苛立ちをぶつけてしまうことが我ながらに苦しく、自己嫌悪になりました。

自分の思いを言葉にして相手に伝えた時、その結果、「聴いてもらえた」と感じることができれば、何も問題はないのです。けれども私は、それを感じることができなかったのです。なぜ、これほどまでに、聴いてくれないと感じてしまうのだろうか。
当時の自分を振り返ってみると、この「聴いてくれない」という心境の裏側には、全く別の原因があったのです。


「全然聴いてくれない」その原因は、私にありました。
実をいうと、私は自分の気持ちを的確に言葉にできないことに苦しんでいたのです。言葉にできないから、伝えられなかったのです。私はドロドロしたものを抱えたままで、とても苦しい思いをしていました。
それでも私は救われたくて、必死で祈り続けました。毎日お広前に参拝し、御取次をいただき、めぐりのお取り裁きのおかげをいただけるよう祈り続けました。
先生はいつも変わらず、どんな私でも受け入れてくださいました。




そんなある日のお取次で、自分の気持ちが、はじめて言葉になった時がありました。

「こんな私でも、神様と先生は、離れていかないのでしょうか?」

私はようやく「本当に聴いてもらいたかった気持ち」が表現でき、涙がポロポロと溢れていました。先生は、にっこりと微笑まれ、このようにおっしゃってくださいました。

「もちろんです。神様も先生は、絶対に離れていかないし、どんな佳世さんでも、かわいいし、愛しいだけなんや。それが親子の愛情というものなんや」
 
そして私はまた、涙がポロポロと溢れていました。「聴いてもらえた」と感じることができたのです。
自分の気持ちを、言葉にするのは怖いし、苦しいけれど、言ったあとは孤独感がちょっとずつ、ちょっとずつ削り取られていきました。自分の気持ちを、言葉にしていく一回、一回が、私にとってめぐりのおとり裁きでした。





自分の素直な気持ちを、言葉にするのは、時に怖くて苦しいけれど、言ったあとは神様が必ず楽にしてくださいます。神様が飲み込んでくださり、おかげに変えてくださるのです。
御取次をいただく日々の繰り返しの中で、どんな自分でも嫌われたりしないということ。どんな自分でも見捨てられないということ、神様の深いご愛情を感じていただければと願っております。お広前でお待ちしています(o^^o)

神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世

(※写真は、完成いたしました壁代でございます)

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