醜形恐怖症(その2)マスクが必要無くなる時とは【コメント2】

みなさまこんにちは🌸細川佳世です。

私が過去に醜形恐怖症を患い、そこから信心しておかげを受けた話を、YouTubeにUPさせていただきました。
        
すると多くの方から、
「私もです」
「マスクが手放せません」
「言葉では言い表せないほど苦しいです」
というお声を聴かせていただきました。
    
それを聴かせていただき私は、気の毒でたまらない、胸が痛い、かわいそうという気持ちも、もちろんありましたが、何より、「こんなしんどい気持ちを、言い辛い気持ちを、よくぞこうして打ち明けてくださいましたね」と、それが嬉しくてありがたくて、神様に御礼申し上げさせていただきました。
      
        
中には、
「今日は少しマスクを外せました」
というお声も聴かせていただきました。「少しマスクを外せた」という大きな大きなおかげを、神様に御礼申し上げさせていただきました。
        
こうして、今日は少しマスクを外せた方も、
私のようにマスクが無くても生きていけるようになったのも、けして自分の顔が変わったわけではありません。
        
顔はけして変わらないのに、マスクが必要無くなった。
顔はけして変わらないのに、今日は少しマスクを外せた。
        
つまり顔の造りで悩んでいるというより、「自分は汚れていて醜い」と思い込んでしまっていることが根っこにあり、そういった気持ちが「顔を隠したい」「顔を見られたくない」という症状となってあらわれ、生き辛くなってしまうのです。
    
 
  
  
   
容姿のコンプレックスは誰しも少なからずあるものだと思っています。
今日はむくんでいるからマスクをしようとか、すっぴんだからマスクをしようとか、そういった気持ちはごく当たり前で、とても自然なことだと思っています。
              
けしてマスクで顔を隠すこと自体が良くないのではなく、「外せない」「外すのがこわい」という生き辛さが、気の毒で、辛いだろうなあと、なんとかしてあげたいなあと、とても胸が痛むのです。
        
そしてその生き辛さの苦しみは、なかなか周りから理解されにくいものでもあります。
例えば、「気にしすぎだよ」「ぜんぜん変じゃないよ」と言われるほど、苦しくなってしまうのです。
それは本人が一番分かっていることでもあるし、「つまらない事で苦しんでいる、つまらない自分」とますます自分を責めてしまうのです。こうなってしまうと、とてもとても苦しいものなのです。
           
こういった「自分の顔が変、醜い」と感じることは、けして「気にしすぎ」ではなく、本人にとっては、死ぬほど苦しい現実なのです。
    
けして「気の持ちよう」ではなく、どうしようもない制御不可能なものなのです。
   
   
   
     
なぜそんなに自分が「自分は汚れていて醜い」と感じてしまうのだろうか。
       
それは、神様から分けていただいた御霊さまをいただいて、この世に生まれた私たち。はじめは、つやつやと輝いているその「たましい」も、家庭の中で大切にしてもらなかったり、周囲の心無い言葉で傷つけられたり、人から裏切られたり、そんな生い立ちの中でいつしか、つやつやだった「たましい」が、傷だらけになってしまうのです(;_:)
          
つまり、「自分は汚れていて醜い」と感じてしまうのは、たましいが傷だらけになってしまっている証拠なのです。
       
   
          
私はそういった方の声に耳を傾けさせていただき、ただ寄り添わせていただくことしかできません。
 
「先生に、苦しい気持ちを、全部聴かせてください。苦しみが無くなるまで、聴かせてください」としか言えません。気の利いた言葉をかけることもできません。アドバイスもできません。
         
ただ、その方の苦しみに寄り添い、聴かせていただき、神様に祈らせていただくことしかできないのです。
     
         
でも、傷だらけになった「たましい」は、こうして目の前の先生に気持ちをさらけ出し、言い辛いところも話していき、「人を信じていく」ことで必ず癒やされていくのです。私も、聴かせていただけることが何より嬉しですし、言い辛いところをお話しくださることが、何より幸せなのです。
             
金光四神様のご理解にはこのようにあります。
『神のことが知りたければ、親のありがたいことから先に知ったら、神のありがたいことも知ることができる。
飛び越して知れるようなことはない』
    
この「親」とは、肉親の親だけでなく、「たましいの親」「信心の親」を指していると思ってます。つまり、お取次をしてくださる先生のことを指しているのです。
    
   
   
   
神様は、諦めなければ、祈り続ければ、必ず救いの道をご用意してくださいます。
 
そして私たちは、助かるために「信心」をさせていただかないと、神様も助けたくても助けられません。助かるためには「信心」が必要なのです。
    
「信心」とは?
    
・お参りして、
・お取次をいただいて、
・目の前の先生に苦しみを全部聴いて頂き、受けとめていただくこと。
        
こうやって「人を信じていく」中で、必ずたましいの傷は癒やされていきます。
いつしか「自分は汚れていて醜い」という気持ちが長い年月の中で、薄紙を剥ぐように無くなっていき、「自分は尊い存在」「自分はこのままでいいんだ」と感じて生きていけるようになるのです。
          
そうなった時に
マスクは必要無くなっていることでしょう
私がそうであったように。
     
         
このお道のお取次を頂けば、今がどれだけ絶望的でも必ず助かりにつながっていきます。
それが、私が信じているこの天地の神様からの深い願いなのです。
    
私も、話を聴かせていただけることが嬉しですし、言い辛いところをお話しくださることが、何よりも幸せを感じます。ここからも一緒に信心をさせていただきおかげをいただいていきましょう
    
            
(写真は、昨年の秋に境内に植えたビオラです。寒い冬も、元気いっぱいに越されました。お幕の色と一緒でとても気に入っています)
  
金光教平戸教会 細川佳世

 

                  

                        

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石原香

こんばんは
佳世先生 わたしは、マスクに守ってもらっています。????
マスクは、風邪予防になるし、いまのつらい顔の荒れも隠せる。有り難い存在です。マスクは健康効果があります。マスクがないといられないのは、つらいことだけどいまのわたしには必要なものです。摂食障害は、不安の病です。ある日突然、精神不安がはじまり、過食してしまう自分がいて。
それには、人それぞれの過去からの苦しみや抱えてきた傷がある。
マスクは、わたしを守り、安心も与えてくれる存在です。
今日も上野動物園で1日楽しく過ごせたのもマスクのおかげ、お友達のおかげ、佳世先生と神さまのおかげだと思い、いつも今日一日無事に過ごせたことを感謝しているわたしです。
ありがとうございます????

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細川 佳世

香さんはいつもマスクに守っていただいていたのですね。教えてくださり嬉しいです。今日、上野動物園で楽しく過ごせたこと、すごいおかげですね✨✨過食があってもそうやって外に出て、自然や天地に触れ、自分を大切しようと努力されている香さんがとてもありがたいです。香さんのように、物にも感謝の心を忘れず物を大切にさせていただくと、今度はその物が、香さんを守ろう守ろうと働いてくださいます(^^)ここからも一緒におかげをいただいていきましょう。細川佳世

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