生きているだけで親孝行

みなさまこんにちは。細川佳世です。
氏子の無事は奇跡です。私はここ平戸教会に参ってくる氏子らに、いつも口を酸っぱくしてお伝えさせていただいております。

「生きていてくれるだけで、いいんよ」
「生きていてくれたら、それで佳世先生は嬉しいんよ」


私自身が心も体も一番苦しかった時、なんでこんなに苦しい思いまでして生きないといけないんだろう、と疑問に思っていました。
「生きる意味」を見出せなかったのです。その苦しみや葛藤は、十数年続いたと思います。

そんな私にも転機が訪れ、「たましいの親」になってくださる教会の先生に出会い、先生のお取次をいただくようになりました。
先生は、私の親になってくださり、一緒に苦しんでくださり、一緒に悩んでくださり、一緒に喜んでくださいました。
私ひとりでは乗り越えられない大きな壁を、時に傷だらけになりながらも信心を教えてくださり、一緒になって乗り越えようとしてくださいました。
   
けれども私は、どれだけ先生のお取次いただいても、内面が変わらなくて、変わることがこわくて、今までの生き方を捨てることがこわくて、だから苦しいままで、だからいつも死にたいままでした。

こんな臆病な私でも、毎日変わらず何時間でもお取次してくださる先生。ありがたいより申し訳ない気持ちのほうが大きく、心苦しくて逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。

それでも私は、なんとしても救われたかったのです。無条件の愛を知りたかったのです。ある日のお取次、ボロボロと泣きながら言いました。

「先生、私は信心させていただいてもう10年以上になりますが、いまだに死にたいという気持ちでいっぱいです。これまで先生に毎日お取次していただいて、聴いていただいて、祈っていただいて、こんなに助けていただいてきたのに、死にたいという気持ちしかありません。私は本当に親不孝者ですね」

私は、こんなことを言ってがっかりされるんじゃないかと不安な気持ちでいっぱいでした。
ところが先生は、優しくにっこりと笑ってくださり、こう仰ってくださったのです。


「佳世さん、生きているだけで親孝行なんよ。佳世さんが生きててくれたら、それで神様も先生も嬉しいんよ」


私は幼い頃からずっと、この言葉が聴きたかったんだなあって感じ、涙が溢れていました。
そうかあ。そうだったんだなあ。私は生きているだけで親を喜ばすことのできる命を頂いてたんだなあ。そんな尊い命を頂いていたんだなあ。
生きているだけで喜んでくれる先生がいる。もう一日、生きてみようかなあ。先生が悲しむから、先生のために明日は生きてみようかなあ。
そんな日々の積み重ねの中で、私は生きる意味を見つけていたのです。


「生きる意味」とは、生きがいともいえます。
たった一人でも、私が生きていることを心から喜んでくれる先生がいたこと。それは私にとって何よりの生きがいでした。

「神様は昔から親神様と言われるように、なんと言っても人間の親様やからなぁ。だからいっぱい甘えたらいいし、しっかりおすがりしたらええんや。
でも神様には口がないから、だから先生がここにおるんやで。神様から『この子の親にならせてもらうんやで』と仰せつかったんや。
佳世さんとは血のつながりはないけども、神様からお預かりした大切なお子さまやと思ってる」

先生は、私の「たましいの親」になってくださいました。神様が、私を助けるために先生を差し向けてくださったのです。



それから10年後、私はここ、平戸教会に参ってくる氏子らに口を酸っぱくしてお伝えしています。

「生きていてくれるだけで、いいんよ」
「生きていてくれたら、それで佳世先生は嬉しいんよ」

氏子の無事は奇跡です。明日も無事でいてくれますように、神様に祈りながら今日も休ませていただきたいと思います。

神様、金光大神様、ありがとうございました。金光教平戸教会 細川佳世

コメントを残す