みなさまこんにちは。細川佳世です。
苦しみは、疑いの心から生まれてきます。
楽になりたいと思ったら、自分の疑いの心に、疑いの声に、逃げてはいけないのです。逃げても逃げても、疑いの心は追ってくるし、逃げ切れるものではありません。なぜなら、自分の内側から出てくるから、どこにいっても逃げられないのです。
私は過去20年間、心の病に苦しみました。いつも神様と先生の顔色を見て、試してばかりで、「信じる」ということがなかなか出来ませんでした。
試すことでしか、愛情を感じることが出来なかったし、それしか安心する方法を知らなかったのです。そこまでの人生の中で、信じる術も、安心する術も、全く身につけていなかったのです。
今思えば、私はどれだけ先生を疑い、深く傷つけてきたんだろうと思い起こされ、それでも温かく受け止めてくださっていた先生のお姿を思い出す度、涙が流れます。
疑われると、悲しいし、寂しいし、虚しい。
そんなことは分かっていたはずなのに、先生の気持ちを考える余裕さえ、その頃の私にはなかったのです。15年前、私は先生のお結界でお取次を頂きました。
「先生!先生は優しいから言葉では私のことをいいように言ってくださるけど、心の中では私のことを鬱陶しいとか、めんどくさいって思ってますよね?」
そう言いながら、疑いの眼差しで先生の顔をじっと見ていました。
「先生!先生はお結界では、そうやっていつも私にニコニコしてくださるけど、心の中では怒ってますよね?」
先生はそんなことないよといつも優しく受け止めてくださるのに、疑いの心がむくむくと湧いてくるのです。先生は教師だから優しくしてくれてるだけじゃないのか?私が病気だから優しくしてくれてるんじゃないか?使命感で愛情を出してくれてるんじゃないか?と、無条件の愛を信じることが出来ず、私の中から疑いの心が湧いて出てくるのです。これこそがわたしが抱えていためぐり(罪)でした。
信じたいのに、疑ってしまうこと。
助かりを願えないこと。
自分を傷つけてしまうこと。
大切にしたいものを、大切にできないこと。
私は大変めぐり(罪)が深い氏子でした。
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このままの自分では生きづらくて、苦しくて、助かりたくて、助けてほしくて、私は毎日欠かさず参拝させていただき、お取次を頂き、自己の改まりを願い、お育てを願い、信心のお稽古を続けさせていただきました。
そんな信心のお稽古をさせていただく日々中で、ある日ようやく、自分の本当の気持ちを言葉にすることができたのです。
「先生、こんな私でも、見捨てたりしませんか?こんな私でも愛してもらえますか?」
本当の気持ちが言葉になった時、私は涙が流れていました。不安な気持ちを言葉にして表現できたことに、たましいが涙を流して喜んでいたのです。
先生は、満面の笑顔で喜んでくださり、温かい眼差してこのようにおっしゃってくださいました。
「もちろんです。神様も先生も、どんな佳世さんでも、愛しいし可愛いだけなんや。それが親子の愛情というものなんや」
私はまた、涙がポロポロと溢れていました。自分の素直な気持ちが言葉になり、それを受け止めてもらうと、これまでずっしりと重かった肩がふと楽になり、冷えきっていた心がほっと温かくなり、孤独感が少し削り取られたような感覚になりました。
その後も日々参拝させていただき、お取次を頂き続けました。自分の気持ちを言葉にするのはとても怖く、苦しかったけれど、言ったあとは神様が必ず楽にしてくださいました。自分の気持ちを言葉にしていくその一回、一回が、私にとってめぐりのおとり裁きでした。
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苦しみは、疑いの心から生まれてきます。
楽になりたいと思ったら、自分の疑いの心に、疑いの声に、逃げてはいけないのです。逃げても逃げても、疑いの心は追ってくるし、逃げ切れるものではありません。なぜなら、自分の内側から出てくるから、どこにいっても逃げられないのです。
「自分の本当の気持ちがよく分からない…」
「誰かに話を聴いてもらいたい…」
「神様は信じてないけどお取次を頂いてみたい…」
どうぞ遠慮なく、参拝されてお取次を頂かれてください。遠慮したり、迷惑かけたくないからといって、いい子でいようとしてしまうと、神様がせっかく手を差し伸べてくださっているのに、こちらが信じれないと手と手は繋がりようもございません。ひっぱりあげて助けることもできません。
ですので、神様と先生に対しては、「遠慮しないお稽古」が大切になってきます。
今日も一日、少しでも人助けの御用にお使いいただきたいと願い、みなさまの参拝を待たせていただいております。苦しい、死にたい、消えたい、そんな方のお引き寄せを、神様に切に願わせていただいております。
神様、金光大神様、ありがとうございました。
金光教平戸教会 細川佳世
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